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本サイトの表記について

例) カート・コバーン、ロジャー・グローヴァー → カートコベイン、ロジャーグラバー

姓名の間に ・ や = は入れません。
理由は… なんか嫌い、面倒臭い。何て呼ぶかも知らん。点?ドット?イコール?
分かち書きの無い日本語の苦肉の策で尚且つ正式なマナーでしょうが… なんかイヤ。
当然、吉田 拓郎、竹下 登などとはやりません。
ついでに言えば、句点(。)は仕方ないが読点(、)はあまり使いたくない。
文章構成上の論理整合の為には勿論(やむなく)使いますが。
即ち私は字面上の冗長を嫌うのです。

一般的に通用する呼称となっていても、明らかな誤記は、原語になるべく忠実になる様に直します。
Cobain をコバインならまだしも、コバーンって…
日本に最初に紹介した記者が聞き間違えたのか、書き間違えたのか、米俳優ジェームズコバーンなんかと混同したのか(こっちは Coburn だから可及的忠実)。
コベイン本人は知っていたんだろうか、知っていたならどう思ったろう、日本のファンにこんなマヌケな響きの名前で呼ばれていた事を。
人の名前を間違っては失礼だと巷間よく耳にするっちゅー事は日本文化ちゃうんか?
否、universal か。因みに小林克也は(当然ながら)コベインと(日本語として)言います。
恐らくアイルランド系の姓なので原語のゲール(アイルランド)語での発音がコバーンに近い可能性はある。
(これをわざわざ検証した上で記者なりがこの表記にした可能性はほぼないが)
仮にそうだったとしても彼はもはやアメリカ人なので当地での発音に近似させるべき。
もし仮に彼がイギリス人だったとしたらコバインでもよかっただろう。
ジュリアスシーザーをユーリウスカエサルと原語(古典ラテン語)に近い発音、表記にすべきだというのとちょうど逆だろうか。シェイクスピアが戯曲に取り上げた事で英語読みが日本にも伝わったんだろうから、文学の文脈ではシーザーで良いかも知れぬが、歴史ではカエサルと呼ぶべきだろう。(筆者高校生時の山川出版社の世界史教科書には併記の上、Caesarとローマ字のルビが振ってあったと記憶する)
別の問題として「アエ」という長母音は英語の音韻体系には無い為に「イー」となった。
日本語はアエでもエウでもオエでも何でも発音できる。母音連続に関しては万能に近い。
ギリシャ起源の言葉についても、我々はパトス、カオス(現代ギリシャ語ではハオスに近いそうな)と言えるが、彼らはペイそス(ペーソス)、ケイオス(この言い方は日本語には無い)。
ニーケーと言えないからナイキ(Nike)。当のギリシャの勝利の女神がもしこれを聞いたら、「はあー?わたしそんなヘンな名前じゃないですけどー」ってなもんだろう。
彼ら英語話者が口伝でなくラテン文字表記を輸入、英語的に読み直した結果だと推測します。
音素こそ少ないが日本語は組み合わせについては母音で終わる開音節であれば何とでもなる。
英語話者と違い、原語に近い発音ができるんだからこの利点を使ってカエサルと呼ばない手はない。
(因みにアイヌ語には子音で終わる閉音節も多いそうな。現代の日本の話し言葉にも、話者により、または話す早さにより、母音が欠落し結果的に閉音節になるものはある)
即ち私は音の伝達上の正確を期したいのです。

ヴは基本的には使いません。
表記上の可及的忠実を期した発明だと思う一方、これを聞き分け、言い分ける日本人はほぼいないからです。
この発明の弊害なのか、b に対してこれを使うマヌケな表記も散見します。
言い分けで思い出しましたが、「を」と「お」を言い分ける人が普通にいる事に最近まで気付きませんでした。
アナウンサーなどだけが意図的に、もしくは訓練されて「うぉ」とやっとるもんだと。
私などは両方「お」ですが、現代においても言い分けるのは関東人に多いのでしょうか。
話を戻して、ヴ表記のディヴァイスは今では書き言葉のみにおけるヴァーチュアルな記号に過ぎず、そう考えるとこの発案者たる福澤諭吉は、日本語に話し言葉の上でも音素(子音)を増やそうと試みたのだろうか。(当時はワ゛、ヰ゛、ヱ゛、ヲ゛という表記も存在)
… 上記もディバイス、バーチュアルって読んだでしょ?
で、これは強ち邪推でもなかろうが、ヴを使うのはそれが外国語っぽくて何かカッコいいから、という程の事でしょう。
格助詞としての機能も視認できる「を」表記とは違い、そこに意味意義は無い。
即ち私は音の本質を記したいのです。

Roger Glover に関しては私もずっとグロウヴァだと思っとった。(ここは発音の文脈だから敢えてヴァ)
単子音 v の前の母音 o なので長母音オウになるのだと。事実、四葉の clover は、クロウヴァ。
でも考えてみれば v はそもそも単独でしかあり得ない。v v を含む単語なぞ無い。
(続けてタイプするのを想定してない為か、それをやったら vv となって w と判別つかんのでスペースを間に入れました)
… と思いきや、葡語羅語由来の俗語らしいが savvy(知る、知識)ってのがあった。
glover(手袋職人)も clover も古英語由来の生粋の英語なので、法則が当てはまらぬ事も多い。
glove もグローブと間違って言われる方が多い。これも影響したのかも知れぬ。
なぜ誤りに気付いたか。長崎のグラバーが Glover だと知ったからです。
彼は商人だったので口問口答した通詞から名が広まり、可及的近似表記となったんでしょう。
しかし彼らが親戚だったとは(本当にそうかは知らんが同じ英国人ではある)。

登場順序としては、Kurt Cobain(原語)または、カートコベイン → コベイン(カタカナ、姓のみ)が基本ですが、日本でも超有名な人に関しては、姓のみで辨別できればいきなり、レノン、マッカートニーとやります。
ジュリアンもショーンもリンダもおるやんけーとは言わないで下さい。

先述の通り、冗長になりがちなのが言語というものです。
日本語の場合、書き言葉においてこれを少しでも解消してくれるのが、表意文字たる漢字です。
漢語は文を物理的に短くしてくれる(線の密度は大概高くなりますが)。
かの国の政府や狂信的な一部の民衆の小日本に対する昨今の態度言動には呆れるばかりだが、漢字を与へ賜ひし事実にだけは絶対の敬意を捧げるべきだ。
そして大日本人たる私もその尊敬と畏怖の念を持って漢語の利点を最大限に活用したく思います。

無からこんな途轍もない文字を体系化した彼らの叡智と根気たるや我々の想像を凌駕する。
かのギリシャの賢人達でさえ、現代も使うギリシャ文字を無から作ったわけではない(フェニキア文字が元)。
その希文字の成立の紀元前9世紀より更に古い前13世紀頃に漢字は出来ており、現役文字体系の中で世界最古。
で、文字数の比較に至ってはドエライ事になる。
希、羅文字がそれぞれ20余りに対し、漢字は超10万。派生や合成、使用頻度の低いものも含んでおり、またそもそも文字自体の性格が違うとは言え、圧倒などという言葉でも全く足りん。
表記文化のみならず、輸入者たる我々の祖先の精神にも多大な影響を与えた事でしょう。

英語を含むゲルマン語派話者たるゲルマン人同様、日本人は自前の文字を作れなかった。
彼らが表音文字(羅文字)に触れ、それを導入したのに対し、我々は世界一含蓄のある表意文字(厳密には表語文字)に幸運にもめぐり会い、それを採用するに留まらず、デフォルメ加工して本国にもない表音専用音節文字という二次製品を作った(二種類も)。
スポンジの様な我々は今や羅文字(ローマ字)をも吸収し我が物にしたと言えよう。
アラビア数字(代表的な表意文字)を含めると実に5種類もの文字を種々の便宜に即し使い分けるとは日本人ってなんて wonderful な生き物。(ちょっと文章に無理があったかな)

でも私も日本人なので和語(やまとことば)の方が響きは好きです。
そのやまとことばを記す「やまと文字」がないのは忸怩と歯痒いがこれはしゃーない。
political correctness か何か知らんが、容疑者のおとこ(和語)、被害者の男性(漢語)って言い分けるのはありゃなんだ?なんで我々のオリジナルの方が悪者?
まだこういう対比の文脈で使われるのはある程度便宜上百歩譲ってしゃーないにしても、おとこおんなでいい場面でわざわざ男性女性って言うのはキモチワリー。
あとチョット話はズレるが、「させていただく」を連発するヤツ…
それを正しい敬語と勘違いしとんのか(正しい敬意の表明になる場合も無論あるが)、ウソ臭い殊勝さを醸そうとしとんのか知らんが、どうせ語尾にこれさえ付けときゃ当り障りねーだろってトコだろ、せいぜい。
そんなヤツにまともな敬意や想像力が備わっとるなんぞ思うかこのクルクルパー。
男性女性って連発するヤツも同じ理由でクルクルパーじゃ。

少し取り乱してしまいました。お詫びさせていただきます。
私は本当は上品な男性です。ここに辯解させていただきます。
礼云礼云玉帛云乎哉 楽云楽云鐘鼓云乎哉

英語や独語においても希(ギリシャ)羅(ラテン)仏語経由の語彙の方が高級だと見なされるという似た様な構図があります。
例えば、I made up my mind. < I made a decision.,I decided.
んー、自分で挙げといてたいして良い例じゃない…
じゃ bona fide(誠実に)や vice versa(逆もまた真なり)の様に羅語をまんま使うケース(前述の如く英語での発音は羅語にあまり忠実ではない)。
きっと彼らがこんな語彙を使う時、憧憬や、権威への仮託が頭にあるのだろう(正にロマン)。
つまり、固有語より借用語(外来語)を格上と見なす。
我々にとっての固有語は和語で、借用語は漢語や所謂カタカナ語。
英独日に限らず、概念等を取り入れるにあたり、または造語の便宜上、固有語が使えず仕方なく借用推敲したものを文化語彙だ、高級だと見なすのはまあいい。舶来品が珍重される様なもんだろうから。
かく言う私も初めて漢詩の読み下し文などに触れた折、漠然と格式高く感じたものです。
しかーし、わざわざ元々ある固有語を貶める必要あんのか?
おとこおんなと言うわしゃそんなに下品かえ?差別的だと?
わしゃおんなおなごむすめにゃ惹かれるが、ジョセイにゃ何の魅力も感じねーど。

私は借用語たる漢語を冗長回避措置として(先述の通り)やや意図的積極的に使うが、そうして書いた日本語文よりも一般的な英文の方が借用語使用率が高い気がする。
固有語彙の貧弱さが原因だろうなどと言うと、ゲルマン人が大移動してきて怒られそうだが、逆に言えば借用語を使っているという意識も多くの場合、彼らにはもはや無いのかも知れぬ。
振り返って日本語。カタカナ語は外来語だと分かり易い。しかし多くの漢語はそれと意識せねば彼ら同様我々も固有語だと勘違いする程定着していると言える。
訓読みなどと言うが、これは漢字を読んでいるのではなく、やまとことばに対して意味範囲の近い漢字を(我々が勝手に)あてがっただけだ。
例) 「つかう」に「使」をあてる。活用の都合上、「使う」と送り仮名で終える。
こうした事も借用意識を希薄にしているのだろう。我が物顔で漢字を使う。
版図拡大に伴って言語文化を強要されたわけではなく、やまとの話し言葉を記録する便利な道具として対価無しに輸入したのだから、今で言や著作権侵害か(この概念にしたって漢字なしにゃ簡単に伝わらん)。
漢字漢語の無許可使用。複製に加え改変までしちゃってる(ひらがな、カタカナ)。
今んトコお咎めなしだが、歴史、領土の次はこの曲芸、ないとは言い切れぬ。
ここで警告の一句、
離れ技 あるかも知れんぞ 外務省
これがゴリ押しされりゃ、ドラえもんやガンダムの問題なんか軽く吹っ飛ぶ。
金印を授かった時点で勅許が下りているという論理もさて、彼らに通用するものか。

日本敗訴の暁にはギリシャが便乗。まず伊と露に改変(ローマ字、キリル文字)の二次使用料を請求。
続いて伊が仏西葡独英蘭… 少しあって日本にも比較的少額ながら請求が…
希も伊もこうして財政健全化を遂げたとさ。めでたしめでたし…
と思いきや、これを聞き付けたアラブ諸国がアラビア数字の著作権をめぐり同胞相討つ事態に。
今や石油を凌ぐ利権に化けた数字利権。
文字通りのNo.1 たる数字の覇者を決せんと、ここにイスラエル不在の第五次中東戦争勃発。
しばらくの間静観していたインドであったが、「0」と大書された御旗をやにわに掲げ、参戦。
空中戦では何故か零戦が活躍し、まずパキスタンを制圧後、西進。
ユネスコが平和解決の道を模索し、数の概念と表記の起源を検証するも明確な結論に至らず、もはや国連は制動を失い戦火は拡大。大惨事の第三次世界大戦の様相を呈し始める。
筒井康隆先生、このアイデア、買って下さいませんか?

閑話休題。然るに、お役所の文書などは「使う」でいいのにわざわざ「使用する」とやってないか。
(なーんつって役所の文書なんぞ殆ど読んだ事も無いけど)
そんな権威付けが横行するのもまた事実だろう。私は前者の和語を「使い」ます。
理由は明快、4マスに対し2マスで済むのに加え、元々和語を優先したいから。
でも名詞形「使う事」と「使用」なら後者。短い方を採用。話し言葉なら勿論その限りではなかろうが。

カタカナ語だったら、例えばコンプライアンス。
これなんぞは権威付けを通り越し、マッチポンプの本質を隠蔽する為の欺瞞的造語(詳細は割愛)。
仰々しい耳慣れぬ新語を見聞きしたらまず訝ってかかるべし。
だって compliance なんて追従って意味だけど、こんなもん、従わせたい側の造語(日本語としての)に決まっとる。
法令遵守とも言われる(こっちはこっちで四字熟語の荘厳に仮託)が、いやいや、この言葉が造られる前は日本は無法国家だったのか?
この言葉と同時に日本も晴れて法治国家の仲間入り、ヤッター!… なアホな。
ハッタリってのは想像以上に、呪文の如く我々の心を捉え、支配するから御注意あれ。
ま、権威主義ブランド志向的思考停止する方も悪いが、とにかく非常に高度で時に狡猾な修辞技法だ。

表記の話に戻して、さっきの political correctness。
これには PC という略称があるそうだがこんなもん十人が十人パソコンだと思うだろう。
音訳のカタカナだと、ポリティカル・コレクトネス…
あまり広まってないしピンと来ないし長すぎて嫌になる。(広まって欲しくもないけど)
直訳したと思しき訳語だと、政治的正しさ…
何のこっちゃ。これに至っては distracting だ。
よってこんな場合、及び説明しようとすると長くなりそうな場合は原語ママを採用する事があります。(原語でもちょっと長いか)
これを私に漢訳させれば、欺瞞的正当性となってコンパクトなんだけど。

さて、歌詞の表記について
原盤を筆者が聞き取ったものを掲載します。
原盤の実際の歌唱と、公式な付属のブックレットの歌詞カード等が異なる場合も間々あり、作者の誤記、出版過程の誤植、歌い損じ等いろいろ原因は考えられます。
この様な場合も基本的には原盤聞き取りを採用します。

歌の構成に関する表記
verse, bridge, chorus という英語を音訳したバース、ブリッジ、コーラス(またはサビ)を使います。
日本ではAメロBメロがかなり一般的でしょうが、Cメロを含めた陳腐な予定調和が嫌いなので使いません。
サビの部分には本来、歴としたやまとことばたる「さわり」を当てるべきだが、恥ずかしながら私も曲の冒頭部分を指すものと誤解誤用していました。ここは慣用性を優先し、それからやっぱり何か響きがいいので、「サビ」を採用します。
尚、ブリッジがCメロを指す場合があるが、やはり本来のサビへの橋渡しという意味で使います。

最後に言い訳を…
歌の分析的な解釈なんぞ極めて無粋な所業です。百も承知。見る阿呆より踊る阿呆の方が当然断然カッコいい。
だけどそんな踊る阿呆に対する羨望と敬意をもって、見る阿呆に徹します。
そしてそんな敬意を抱かしめる wonderful な詞が厳然と存在すると断言できます。

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