1971年発表の第4作アルバム Hunky Dory のA面4曲目。73年にはシングルとして発表され、英3位を記録。
下のビデオに写っているのは研ナオコではない(清水アキラでもない)。
Life On Mars?
(David Bowie)
D7 Gm
To the girl with the mousy hair
Gm7 C
But her mummy is yelling “No”
C7 F
And her daddy has told her to go
FM7 F7
But her friend is nowhere to be seen
D7 Gm
Now she walks through her sunken dream
Gm7 C
To the seat with the clearest view
C7 Ab
And she’s hooked to the silver screen
FmM7 Fm
But the film is a saddening bore
Ab7 Db
For she’s lived it ten times or more
F7 Bbm
She could spit in the eyes of fools
Db
As they ask her to focus on
全く取るに足らない出来事だけど
彼女の母親が叫んでる「いやよ」
父親は出て行けって言ってた
でも友達はどこにも見当たらず
果てた夢の合間を縫って
見晴らしのいい特等席へと歩を進める
そして銀幕に目は釘付け
なのに映画は悲しいほどに退屈
少女はそんなの十回以上も経験してきたんだもの
愚か者達の目につばでも吐きかけてやろうか
その愚か者達が少女にこんな風に言おうものなら
Gm Ebm F
Oh man! Look at those cavemen go
Fm Cm
It’s the freakiest show
Ebm Bb
Take a look at the Lawman
Eb
Beating up the wrong guy
Gm Ebm F
Oh man! Wonder if he’ll ever know
Fm Cm
He’s in the best selling show
Ebm Gm GmM7 Gm7 C7
Is there life on Mars?
何てこった!見ろよあの乱暴者
最高に奇妙なショウじゃねーか
ほら 警官が
お門違いの人をやっつけてる
嗚呼!彼は一体気付くだろうか
大人気の映画に出ている事に
火星に生命体は存在するのかな?
F F#dim Gm G#dim Am Bb Bbm
D7 Gm
Mickey Mouse has grown up a cow
Gm7 C
Now the workers have struck for fame
C7 F
’Cause Lennon’s on sale again
FM7 F7
See the mice in their million hordes
D7 Gm
From Ibeza to the Norfolk Broads
Gm7 C
Rule Britannia is out of bounds
C7 Ab
To my mother, my dog, and clowns
FmM7 Fm
But the film is a saddening bore
Ab7 Db
’Cause I wrote it ten times or more
F7 Bbm
It’s about to be writ again
Db
As I ask you to focus on
ミッキーマウスが牛へと成長を遂げた事
今や労働者は名誉のためにストライキ
レノンがまた売りに出されたから
百万のあのネズミの大群が見えるだろうか
イビサ島からノーフォクブローズまで
ブリタニアの統治は国境を越え
俺の母に、犬に、そして道化者にまで及ぶ
でも映画は本当に退屈
だってそれは俺が十回以上も書いたからだ
それは再び書かれようとしている
俺があなた達に注目するよう頼む時に
→(chorus)
本作が生まれた経緯は以下の通り…
仏シャンソン歌手 Claude Francois の67年のヒット曲 Comme d’habitude に対し、ボウイは68年、Even a Fool Learns to Love という題で英詞を付けた。しかしそれが発表される事はなかった。
その後 Paul Anka(1941-)が仏原曲の権利を得て英語で書き直し、69年に引退を仄めかす Frank Sinatra(1915−98)に歌わせ大ヒット。これがかの、日本でも有名な My Way。
このアンカ版のシナトラによるヒットを受けてボウイはパロディとして Life On Mars? を書いた。
レコードの冊子の中に inspired by Frankie(フランクシナトラにインスパイアされて)という記述があり、それが彼とそのヒットに対する純粋な敬意なのか俺の方が先だったという当て擦りなのかは定かならぬが、私は後者だと踏んでいます(Even a Fool… の中に my way という言葉が先んじて使われているし)。
My Way は音楽の教科書にも採用された。私も歌わされたけど大袈裟な感じがとにかく大嫌いだった。
歌い出し And now, the end is near に対する邦詞「今、船出が近づく」。
これが死の婉曲表現だなんて小学生に分かるわきゃない。
「心の決めたままに」my way でやったら大概教師にドヤされる様な管理教育だったんだからこんなん歌わすな。
シナトラファンか知らんがどーせ文部省のエライじいさん連中が内容をちゃんと吟味もせずこりゃいい歌だとばかりに採用したのだろう。そこは随分「管理」が甘いぞなもし。
話が逸れました…
日本のマイウェイの内容は My Way に近いが、仏原曲の詞とは無関係らしい。
comme = like(の様に)、habitude = habit(慣習)、つまり、
As Usual = いつもの様に、というのが仏原題の意味。
ボウイの英詞は、苦楽悲喜様々な人生の局面で人が愛を学んで行く様を描くものだが、それが原詞に忠実かどうかは分かりません(表題は、愚者でも愛する事を知る様になる、の意)。
My Way は Sid Vicious(Sex Pistols)もカバーしたが、彼の真意は何だったんだろう。
マイウェイは土井たか子(日本社会党)もカバーしたが、彼女の真意は何だったんだろう。
I’ll die before I’m 25, and when I do I’ll have lived the way I wanted to.
確かに彼こそ I did it my way
残念ながら土井たか子のマイウェイの動画は無かった。
それにしても何ちゅー足の長さ!10頭身位か。白い背広もよー似合とる。
シドはボウイの大ファンだった
さてこの因縁浅からぬ2曲、コード進行が同じだとよく言われるが、全く同じというわけではない。
キーを揃えたとして F FM7 F7 のベース音半音下降の所や D7→Gm の展開など、主要な部分が同じ。
ボウイがあっちを念頭に置きつつ書いたのは間違い無かろうが、パクリって事にはならんだろう。
私見では、内容が過去と未来で違うが、「昴」の方がマイウェイっぽい(これはこれで石川啄木の「悲しき玩具」のパクリと言われたそうな)。
I did it my way、心の決めたままに、我は行く…
オッサンの自己欺瞞的自己正当化、自己説得的決意表明。
因にシナトラもアリスも嫌いでは全くありません(昴はソロか)。好きな曲も少なからずある。
話は更にズレますが、美空ひばりの最後のヒット曲も同系譜に載るだろうか。人生を総括した(のであろう)歌詞。
しかしあの偉大な歌手の辞世があんな代物によるとは何とも皮肉。
自由詩はデタラメを意味しない。いはんや非文をや。
指摘する向きが少ないのは歌い手の圧倒的な歌唱に紛れる為か。それともメディアによる封殺か。
また別の歌で、椎名林檎が多用(即ち発明)した、漢語+カタカナ語の表題命名法をしれっと皮相だけパクっとる事実も誰も咎めないのか。当然彼女へのオマージュなぞ微塵も感じられぬ。本人は作詞家を自称しとる様だが。
閑話休題、71年前後は米ソの火星探査が活発だった時期。
ミッション数が史上最多(今日に至るまで)の71年に発表したのは当然ボウイの狙いだろう。
生命体の有無の確認が探査の主眼の一つだったのは勿論だが、この文言 Life on Mars(?) をポピュラーにしたのはボウイではなかろうか。
この後、ドラマの表題になったり探査が行われる度に報道の見出しに踊ったりしている。
2008年米探査機 Phoenix の着陸を伝えるTVニュースのヘッドラインに使われていた記憶がある。
私は勝手に「お、ボウイのニュースか?」と思いきや、ホンモノの方だった。
では逐語的に…
の前に、ほぼ全編に亘り、脚韻が施されている事に触れておきます。
affair/hair, go/show/know, brow/cow など…
god-awful = god の様に awful な
神の様にヒドい、と取るとまるで神を冒涜する様だがそうではありません。
思うに人間は、文字はおろか言語獲得以前の太古から自然の不可知不可測不如意不確実性に恐怖し、言語を我が物にするや否や、神の存在を想定設定し、皆で共有した。
よって恐怖や神を表す共通認識としての言葉は言語発生の草創期には既に作られていたと考えます。
この原始宗教において神を尊敬(神頼み)する事で心のバランスを保ってきた。
awe = 畏怖、畏敬
つまり恐怖と同時に尊敬の念を抱く状態。恐怖と尊敬は表裏一体。
その形容詞型 awful も勢い両義を持つ。
しかし恐らくこの後にもう一つの形容詞型 awesome が生まれ、これは便宜の上でだろうが現代口語では主に前者が負、後者が正の意で使われるに至った。
awful = 恐ろしい、ひどい(負の意)
awesome = awe-inspiring = 畏敬の念を起こす、素晴らしい(正の意)
そして、god と awe の元来の意味の上での高い親和性(しかも両方固有語、即ち古英語由来)から、名詞+形容詞の合成形容詞 god-awful が口語として生まれたが、本来の畏怖は捨象され負の意のみが付与された。
つまり、ぞっとする様な、という意味になった。
但しここでは更に程度の強調のみが抽象されて、強意副詞的に使われている。
即ち、とても(= very)の意。
じゃあ長々能書き垂れてねーで始めっから god-awful = very って言えよ、と言われると私は god-awful sad(とても悲しい)。
mousy hair = 鼠色の髪
鼠は本作の重要なキーワードの一つ(後述)。
公式冊子には mother, father と掲載も、mummy, daddy と歌唱。
yelling と told の発語の対象者の解釈如何で内容が異なる。
尚、現在進行形 And 現在完了形なので時系列としては、
父”Go” → 母”No” の順序に注意されたし。
case 1. yelling → 娘、 told →(her =) 娘
母は外出はダメと娘に叫んでいる、父は娘に出て行けと言っていた。
case 2. yelling → 父、 told →(her =) 母
母は出て行く事はイヤと父に叫んでいる、父は母に出て行けと言っていた。
case 3. yelling → none、told →(her =) 娘
母はとにかく No と叫んでいる、父は娘に出て行けと言っていた。
1. 恐らく一般的であろう解釈。
その中でも更に普通の解釈が
1.1 少女の去就をめぐる家族喧嘩。
しかし父母が娘に正反対の事を言っている事から、互い and/or 娘に対する無関心とも取れる。
1.2 もはや口論というコミュニケーションすら採らぬ冷め切った、または冷戦状態の家族。
2. 娘不在の夫婦喧嘩を娘が傍観傍聴。父「出て行け」母「イヤよ」
アンタこそ出て行きなさいよ、と言ったかどうかは不明。(おーこわ)
3. yell(叫ぶ)の動詞としての性質上、対象者が無い場合も考えられる。
父が娘に「出て行け」と言う様子を母が傍観して「こんなのもーイヤ」
性質というのは、yell が対象者を目的語として取らない事。say と同じ性質。
口から出る内容は目的語になるが対象者を明示するには前置詞が必要。
yell なら at(か、悪意敵意の無い場合は to)、say なら to 。
She yelled abuse at me.
悪口を大声で私に怒鳴った
She yelled directions to him but he couldn’t hear her.
指示を大声で分かる様に彼に叫んだが聞こえなかった
She said “No” to me.
No と私に言った
Lionel Richie のヒット曲 Say You, Say Me は、say to you, say to me (君に言う、私に言う)ではなく、you, me という言葉を口に出して言う、という意味(勿論、西友という意味でもない)。
話を戻して、どの case でも結局は良好ならざる家族関係を表している。
ド頭の「全く取るに足らない出来事」とは即ち、この1.2.3.いづれかの家庭内不和を指している。
恒常化した家族の雰囲気なのか突発するものか分からぬが、少女が虚しさを感じて家を離れるに十分な動機。
作者の意図的な多義化ではなかろうが脚韻のせいもあってか面倒くさい作業を余儀なくされてもーた。
こんな4通りの解釈なんかどーでもえーわと思われた方、私は悪くない、全部ボウイが悪いんです。
公式掲載 As she walks… 原盤歌唱 Now she walks…
As は誤植でなく、ボウイが録音直前に Now に変更した(か間違えた)のだと邪推します。
掲載通り As の場合、3行が繋がった1文となり、
But her friend is nowhere to be seen as she walks through her sunken dream to the seat with the clearest view.
果てた夢の合間を縫って特等席へと歩を進める道すがら友達は館内のどこにも見当たらない。
友達の存在自体は認める解釈を許す。映画のみならず友達も求め館に来た(がここにはいなかった)。
歌唱通り Now の場合、1行目(断絶)2行目
But her friend is nowhere to be seen.(ピリオド)
Now she walks through her sunken dream to the seat with the clearest view.
家を出たけど友達はどこにも見当たらない、或はそもそもいない。
ならばしょうがない、果てた夢(友達の不在も含む)の合間を縫って映画館の特等席へと歩を進めるまでだ。
元から友達がいないという解釈を許す。こうなると虚無を超え絶望に近づいて行く。
最終的に Now を採用したボウイはちょっと残酷なお人。
家を後にするも、友達がいない、もしくは誰とも会わなかった少女。夢なぞ疾うの昔から見なくなっていたが、それでも一縷の望みを手繰って映画館に辿り着く。
これ以降の描写全体が少女の白昼夢(daydream)ともとれる。
不和の家庭から想像(妄想)の世界へ逃げ込む。
特等席で銀幕に見入るも映画の内容にウンザリ。
なぜって彼女はそんなの十回以上も生きてきたから、全く見るに及ばぬ。
驚異の経験を求めて来たのに、その一縷もここで完全に断たれてしまう。
そんな少女の退屈そうな様子を察知したのか、彼女の言う愚者たる周りの観客がお節介にもちゃんと鑑賞するよう口を出してくる。
絶望の此岸にいる少女を元気付けようとでもしたのだろうか。
でもそんな彼らの気遣いすら今の彼女には愚行としか映らないのか。
(tell でなく ask というやわらかい表現、即ち命令というより依願)
(仮定法で、やろうと思えば)彼らの目につばを吐きかける事だって出来る、とはまた随分な話だが、彼らにではなく彼らの目にってのが肝で、彼女からすれば本質が見えず皮相しか映らぬ目など有って無い様な物だから私のつばが掛かった所で何も変わらないよ、おバカさん達、てな事だろう。
ただ fools を映画或はその制作者、更にはメディア全体とする解釈も成り立つ。
(他の観客がいない方が the clearest view は確保できるだろうし)
メディアや映画が提供するコンテンツはその視聴を強要するものではないから tell でなく ask なのかも。確かにこちらがチャネルを合わせさえすりゃ focus できるって仕組みだし。
いづれにせよ、本質を見る少女と皮相のみを楽しむ者達との対比なので、これ以後観客に統一します。
ボウイのこの spit の発音を聞くと本当に英語に促音は存在しないのかと訝しく思う。
特に直後が母音なのでスピッティンとしか聞こえない。
促音の方がつばを「ぺっ」と吐いてる感じも出るし。元は擬音だろうし。
存在せず、が言語学的には定説だが、そんなモンただの線引きの問題。
focus on は自動詞+前置詞で、次のサビの冒頭 Sailors が目的語。
歌の構成上はっきり線引きされる筈のブリッジとサビに一つの文が跨る事なぞきっと稀だろうが、その違和感と相俟って聴き手の焦点を瞬時に銀幕の方へパンする効果は絶大だ。
冒頭の虚無の囁き。そしてそれを理解し見守るかの様なピアノ伴奏。
少女の理解者は家人にはいない。
家を離れ、落胆の度合いにつれて歌唱の音量も増大し、ブリッジからは弦楽も合流。
サビで焦点が映画の内容に移り、虚無と皮肉の絶叫で絶望に食い下がる。
絶望は強敵だが、此岸で踏ん張り、虚無の盾と皮肉の矛を携え最後の抵抗を試みる少女。
ドラムも参加した伴奏も今やどちらに加勢するでもなく、この相克を公正に審判し且つ演出する。
ピアノ伴奏は Rick Wakeman (後に Yes に加入)。
余談だがマッカートニーが Hey Jude で使ったのと同じピアノを弾いたらしい。
弦楽編曲は Mick Ronson の手による。当然ギター演奏も。
My Way(マイウェイ)は自身の心の高ぶりにつれ、演奏歌唱も昂揚する。
然るに Life On Mars? の演奏歌唱の昂揚は少女の落胆やもどかしさに比例している。
1番の文の多くが接続詞で始まるその語り口も、もどかしさや落ち着きの無さを表わしているかの様。
この全く異なるベクトルを以って先述の通りシナトラとアンカに当て付けたのだろうか。
私も前者には機微を微塵も感じない。自分で決意して正しいと思って勝手に盛り上がって満足してりゃいいだろ。わざわざ歌にして人に聞かせる程の事か?(言い過ぎか?)
と言いつつ、私も含め誰だってやった事はあるでしょう。
自省に比べりゃ遥かに簡単な作業だもん。だが安易な自讃は思考停止にほぼ同じ。
だからこそマイウェイは少なくとも若輩に歌わせるものじゃない。
文科省よ、ボウイの歌をこそ採用し給へ。
そしてゆとりだの管理だの詰め込みだの、本質を欠く不毛な議論はもーえーよ。
比較なぞ詮無い事と言われりゃそれまでだが、この似たコード進行を使って歌う詞の正解は後者だと思う。
本当の正解はトレビアーンな仏原曲なんだろうけど(如何せん内容が分からん)。
本作に関するボウイ本人の弁
A sensitive young girl’s reaction to the media.
ある繊細な少女のメディアへの反応。(71年)I think she finds herself disappointed with reality… that although she’s living in the doldrums of reality, she’s being told that there’s a far greater life somewhere, and she’s bitterly disappointed that she doesn’t have access to it.
今は退屈でもどこかにずっと良い暮らしがあると聞かされていた。 しかしそれに辿り着く手段(アクセス)を持ち得ていない現実にガッカリしている自分に彼女は気付いたのだと思う。(97年)The Complete David Bowie, p. 144
んー、折角韻文を散文で説明するんだからもーちょい具体的なヒントをくれてもえーのにとは思うが、手品師は手品の披露こそが本業であって種明かしが仕事じゃないのと同じ、だからまあしゃーない。評論家でもないのに作者自ら解説してくれただけでも有難いと思うべし。
ただ71年なら作ってから日も浅いが、97年ともなると、本人の見方考え方も変わってしまい、自作品と言えど解釈も異なっている可能性もあります。作者本人なのに I think とか言ってまるで他人事だし。
ま、作者からすれば、もう何十年も経ってんのにコイツまだ訊いてくるか、種明かしをせがんでんじゃねーよ、てなモンだろう。
作者と作品の間でのケミストリやフィードバックだって起こり得る。
作った当初より好きになったとか、逆に歌わなくなったとか言うのを耳にする事があるが、それは作者自身による再評価の結果なのだろう。
てな訳で、作者本人の発言ではあるが参考までに留めておきます。
1番の語り手は家人以外の第三者だが、私はこれを作者歌唱者たるボウイと見なします。
場面が銀幕にパンするサビで、語り手も切り替わる。これは2通り考えられる。
case 1. 語り手 = fools = 少女と同じ映画を見る周りの観客
(ブリッジの最終行からの流れを踏襲して)船乗りに集中してくれんかね。Oh man! あの乱暴者をご覧なさい…
以下映画の内容を好意的にみて感嘆する観客が、少女にも一緒に楽しもうと誘うかの様な展開。
case 2. 語り手 = 主人公たる少女
ブリッジから文は続くが、一旦断絶して少女の語りに転換。以下 boring 映画鑑賞。
皮相が透けて本質が見えてしまうが故の bore 。その皮相に歓喜する fools に対する軽蔑。
少女の発話が第1群に認められない事や落胆している事から、館内でボウイの歌唱の様に大声で fools に対し話しかける様子はちょっと想像できない。
少女の独り言や独白、傍白ならまだ考えられるが、やっぱ大声と合わない。
本当につばでも吐きかけたというなら、落胆の負のエネルギーを正に転換した結果の絶叫とも取れるが、2.の可能性は低いだろう。
従って、1.の可能性が高いと思うものの、結局は1.2.いづれの場合でも虚無と皮肉に満ちる少女の内心の描写って事には変わりない。
ここで今だに controversial なサビの最終行 Is there life on Mars? に踏み込みます。
上の1.2.に関係なくこのラインの語り手が主人公たる少女である事は間違いありません。
サビの終わりに1小節を超える長音で表題を大絶叫するんだから、本作のクライマックスなのは勿論、最重要な意味を持つだろう事は想像に難くない。
最後の望みだった映画もつまらないと分かった少女が、今度は探査で話題の火星に目を向けた。
家もダメ、映画館もダメ、こうなったら地球外に注目だ。こんな映画の事より、あの火星には生き物がいるのかな?
何とか bore を wonder に変えたいと切願する少女の本当に最後の最後の曲芸的飛躍的な一手。
発表当初この歌には「火星の生活」なる邦題が付けられた。そしてそれは誤訳だと言われる。
しかし私の解釈からすると結果的には間違いではない。
ここでボウイの発言に立ち帰ります。
a far greater life somewhere を夢見る少女。それは退屈の対極の驚異に満ちた生活。
media(= silver screen)の現実的空想に失望し、火星での空想的現実に期待を寄せる。
当時「火星の生命体」の存否でその media を賑わす火星探査を利用した表題。
しかしその表題とサビの最終行の他に、本作に宇宙的要素は見当たらない。
この唐突さと、life という語の両義性とを以って、後の長きに亘って本作を controversial たらしむる意図が当時のボウイにあったかは知り得ぬものの、彼はそれ位の策士ではあろう。
何にせよ、表題も含めた本作の言葉遊びは見事の一言に尽きる。
2番に移ります。
Amerikas = America’s で、ただの誤記か誤植でしょう。何か特別な意味があるとしても全く見当がつかん(これも controversial たらしむる一つの要素か)。
torture = 拷問する、brow = 眉毛(= eyebrows)、額、顔(つき)、なので
tortured brow = tortured face = 拷問された顔つき、苦しみの表情。
cow → cash cow = 稼ぎ頭、ドル箱、と考えます。
ちっぽけな鼠が今や大金を稼ぎ出すキャラクターに変貌を遂げた。
このミッキーの記述は that 節として括られる。つまり It が指すのはこのミッキーの事。延いてはそれに続くアメリカの社会構造全体。
レノンの引用は恐らく、ボウイも後の Tin Machine 時にカバーした Working Class Hero(70年)を指す。
発音の類似(Lennon ≒ Lenin)と workers への言及から、レーニン(1870−1924)との double meaning だとする向きもある様だがそれはきっと深読みのし過ぎで、単に上の歌の示唆だろう。
cash cow と workers の対比で格差構造を暗示。割を食う労働者の苦悶の表情。
こっからしばらく話が逸れます。
時の米国大統領ニクソン(1913−94,在任69−74)はレノンの急進的言動とそれに対する熱狂的支持を脅威に感じていた。FBIに監視盗聴させたり、大麻所持の逮捕歴を根拠に、移民局に指示して何度も国外退去命令を出させたりしていた程。
逆に言えばレノンの当時の影響力の程が窺える。
上の曲はニクソンも知っていただろう。
特に最後の一節 If you want to be a hero well just follow me などは扇動的に聞こえた筈。
follow me などと言っていいのは民主的に選ばれた私の様なリーダーだけだと思ったに違いない。
ニクソンの支持基盤は、彼の言う the great silent majority(物言わぬ多数派)で、その彼らもまた自身の子らの世代がレノンに共感するを良しとせず、noisy minority(主張がうるさいだけの少数派)に過ぎぬと一蹴したかった事だろう。
silent majority なる言葉は、その論理不備に気付かぬふりをして詭弁として使われる場合がある。
つまり、物言わぬのを好い事に利己的解釈を付与し、多数や否やの確認も無いのに多数だと嘯く事であたかも支配的であるかの様に印象付ける。言ったモン勝ち。ニクソンもそんな使い方だったのかも知れぬが、彼の副大統領時代からの友人の岸信介(1896−1987)も、似た言葉を同様の意味意図でニクソンより前に使っていた。岸は安保闘争のデモ隊の沈静化を図る中で、「声なき声」が聞こえると言った。
the great silent majority は岸の「声なき声」をニクソンが自分なりに翻訳して使った言葉なのかも知れません。
ジョンFケネディ(1917−63,在任61−63)は60年の大統領選で、先出のシナトラとシカゴマフィアを使って選対を展開し、ライバルでもあり、党は違えど友人でもあったニクソン(当時アイゼンハワー共和党政権の副大統領)を僅差で下すが、シナトラは見返りが無い事に激怒したそうな。今では明白な選挙不正とみなされている様だが、ちょっと飛躍すると所詮世を統べるは暴力。民主主義が治め得るなぞ半分は幻想。残りの半分は(私の様な)正直者のガバナビリティに拠る。暴力統治を標榜するつもりは臆病の私にはないが、人間とて野生生物と同じ法(のり)の中に生きる。粗野な不良が女にモテたり、同性の男にも憧れられるのも、遺伝子にこの絶対真理と恐怖が刻まれているからに他ならぬ。理性を獲得したつもりでエラソーにしていてもDNAを欺く事など出来っこない。歴史や時事問題を眺めるに、それらについての理解をこれ程にうまく助けられる概念があろうか。挙例は不要だろうが、暴力の最大規模の発現たる戦争や内乱が時空二様に存せぬ試しなぞ無いという厳然たる事実。
またまた飛躍の誹りを恐れず言うなれば、主権即主体的軍事力。この論理に拠れば日本は主権国家に非ず。
何だか虚しくなって主人公の少女みたいに Is there life on Mars? と大声で叫びたくなりそうだが、これまた彼女と同様に私なぞは虚無を燃料に皮肉の推進でも得る他は無い。それで何処に向かうかは本人も存ぜぬが。
日本の場合更にマズいのは、核兵器こそ無けれ、暴力装置の機能的水準は高いのにその発動に手続き上の枷があるという事。
それは憲法解釈なる代物。そもそも世に数多ある文章の中で、いっちばん多義であっちゃならんものだろう。
ヒトは言語を獲得してから随分月日が経ったんじゃないのけ?事象の切り取り作業で発展した言語だが、憲法などという(多分)大事な物に対して、この現代でも線引きのハッキリしない文言を適用しちゃってんのか。GHQ の強制の有無や、翻訳の過程でこーなったあーなったなんかもーどーでもえーわ。私は条文なぞ殆ど読んだ事ないけど(無いんかい)、本当に多義ならその事自体が改正の十分な理由になり得るだろう。完全な線引きができる程に言語が万能じゃないとしても言語が悪いわけじゃない。明らかに読み手使い手の杜撰や怠慢。だって国の成り立ちを規定する物でしょ。それが複数の解釈を許すなんざ、土台がグラつく家に住まう様なモンだ。
それともそれも全部ひっくるめて米の意図が今でも有効なのか。黙契の支配下に?(ま、答えはほぼ応だろうが)
もうひとつ考えられるのは、文言は明瞭なのに強引な異解釈を付与して要らぬ論争を起こすケース。こんなマッチポンプを血税使ってホントにやっとるんであれば恥知らずもえートコだ。事の重大さをを思い知るべし。
ネット上で歌の解釈や言葉遊びを呑気にやるのとはわけが違うんじゃ(それはワシじゃ)。
そんな事やっていながら文民統制は大事だと寝言でも言う様な体たらくはクーデターでも喰らうがよろしい。
覚悟無き者は去るべし。岸には少なくとも覚悟はあっただろう。
ボウイもファンだった三島由紀夫(1925—70)も似た様な思いだったと勝手に推測するが、あまりにも強いその思いは内向するのみで、隊の雰囲気や隊員の心理を斟酌するに至らなかった。否、そんな作業は疾うに完了しており、その上で絶望に足を踏み入れたのか。この主人公の少女の様に、虚無の盾と皮肉の矛を携え、絶望の此岸に踏み留まる事は出来なかった。三島は盾なぞ端から持ち合わせず、大上段に構えた刃を振り下ろす相手を失い、やり場の無いその切先を自身に向け、絶望の川の急流を渡り、彼岸へと去って逝ってしまった。こんな事を書くと、右からはお前ごときが三島を語るな、左からは国粋主義者のジコマン文章に付き合うヒマなぞ無い、などとステレオの誹りを受けそうだが、双方とも的外れの指摘、間違った「解釈」なので悪しからず。
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
三島の関心は愛国ではなく亡国だった。
上は三島の辞世ではありませんが、苦悩は苦悩として、醜さは人間の業として飲み込めていれば、または「鹿」に遭遇し、究極の状況をも相対化出来ていれば、と私なんぞは思うんです。
そしてこれは三島に限らず、多くの場合に適用され得る真理と確信します。
随分話が逸れてしまいました。
でも私は悪くない。シナトラが悪いんです。逐語訳に戻ります。
mice は mouse の複数形で、前出のミッキーマウスに因んでいる。
鼠の登場はこれで3度目。初出は冒頭の少女の髪の形容 mousy (hair)でした。
Ibeza は地中海に浮かぶ観光地として有名なスペイン領のイビサ島。
Ibiza が正式表記なので恐らく Ibeza は誤記か誤植。
the Norfolk Broads はイングランド東部の地域。
Rule Britannia は英の愛国歌 Rule, Britannia! の引用。
ブリテン島を統べよ(動詞+目的語)かと思いきや、ブリテンを擬人化した女神ブリタニアに統べよと言っている様です。(邦題 = 統べよ、ブリタニア)
Rule, Britannia! Britannia rule the waves.
Britons never, never, never shall be slaves.
統べよ、ブリタニア! 大海原を統治せよ
ブリトンの民は 断じて 断じて 断じて 奴隷とはならじ
上記は何度も繰り返されるリフレイン部分。
これを見ると Rule は命令形というより、実質的な英国歌の表題 God Save the Queen や (May) (God) bless you. などと同様に祈願と解するべきでしょうか。
女神ブリタニアが大海原を統べたまはんことを、てな感じだが、ま、大してその意味に差は無いか。
断じて 断じて 断じて 奴隷とはならじ、とは何方か存ぜぬが、秀逸な訳出。
このリフレインできっと英国人は大いに盛り上がるのだろう。
https://youtu.be/WhAkDjJjr_s
ここでは rules と歌われている。もはや何と命令でも祈願でもなく既成事実。
世を統べるはブリテンなりってか。
斯様に歌詞は少しく流動的だそうな(shall の所が will になったり)。
初めて調べてその詞に触れたのに、何か聞いた事ある様なデジャブを感じると思ったら、昔よく聴いた Sting の歌の一節だった。
The children of England would never be slaves
They’re trapped on the wire and dying in waves
(Children’s Crusade のサビの一節)
英の国歌も愛国歌もその詞を眺めるに、借用語(主にラテン語由来の外来語)が散見する。国の歌なのに。
然るに日本の国歌は全部固有語(やまとことば)だ。キミがクン(君)から出来た言葉なら漢語(借用語)だが、だとしても殆どがやまとの原語。内容は置いといても、その事実だけで国歌の詞に相応しくはある。
曲調についても、世の多くの国歌が虚勢的なまでに勇ましい印象なのに対し、君が代は控えめにして荘厳。
対比すればその独自性は浮き彫りになる。ゆったりした、愚直なまでの四つ打ちに、調べちゃいないが多分世界最低 bpm。
歌わなかったり起立しない教師がいるそうだが、嫌なら自分で作詞曲するなり旗のデザイン描いて持って来い。否、それ以前に税金でマンマ食っとるんだろ。給金を国に返上して、教師を辞めてから考えを主張せよ。そんな筋も通さぬ主張(手段内容両方)は卑怯以外の何物でもなく、その程度で悦に入る姿は想像するだに実にミットモナイが、彼らにはその想像力も欠如しとるモンだから始末が悪い。そんな代物をして信念と呼ぶなかれ。
彼らの態度が役に立つとすれば、それは彼らの大切な(と思っている筈の)生徒を混乱させる事にのみぞ。
生徒の中にだってそんな論理矛盾の主張を弄する教師を軽蔑する向きもあろう。そんな子は、教育なぞもはや要らぬ程の立派な分別が備わっているから心配ないが、先生は自分を持っててちゃんと主張できてカッコいーなどと思ってしまう生徒もいるだろう。彼らは長じてどうなるか。ただの自分勝手と本当の自由の辨別も出来ぬ馬鹿リベラルか阿呆アナーキスト。子を持ってモンスターペアレントが関の山。而して彼らの大切な(と思っている筈の)後輩教師達を将来困惑させ狼狽させるだろう事請け合い。天に唾する愚行に気付かぬ思考停止の似非リベラルに人を教育する資格無し。
きっと彼らもワールドカップやオリンピックが開催されれば、嬉々として日本を応援するだろう。
学校行事での自らの行いと齟齬する事には全く気付かぬまま。
早くも話が逸れました。でもやっぱり私は悪くない。似非リベラルが悪いんです。
因に本物のリベラルとはボウイの様な人を指します。
2番の解釈を始めます。
ミッキーマウスが算盤を弾き、格差構造の中で労働者は喘ぐ。それがアメリカ(人)の苦悶の表情。
この構造は、社会に参画する前段階の教育にも言及する Working Class Hero に詳しい。
イビサ島とノーフォクブローズは享楽の島と原野の対比か。ただ恐らく脚韻が先で出て来た言葉だろう。
その間に群れを成す夥しい鼠とはつまり世界中の労働者、更には一般大衆を指す。
英愛国歌の引用は軍国主義の隠れ蓑たる資本主義構造を指しもするか。
その資本の論理が境界を越え、母に、犬に、そして道化者にまで及ぶ、とはつまり誰もが遍く構造の下位に属する搾取の対象者になり得るという事。特に clowns(道化者)の採用は当然 bounds との脚韻の便宜もあろうが、無邪気で素直な者も否応なくその構造に取り込まれる運命にある様を表す。無邪気が結果的客観的に道化となってしまう。
そして鼠から鼠講を想起するのは私だけではあるまい。より上位へと吸い上げられる仕組み。
洋の東西を問わず鼠は多産の象徴であり、生体実験に使われる事から、利用される者の喩えとして引かれる。
そしてそんなちっぽけな鼠(庶民)でもヒットを飛ばせばミッキーの様に成り上がれるという事実。
レノンもボウイも the top に登りつめた立場の人間だが、この事実自体は二つの曲の主眼ではない。
飽くまでも the hill に登った事により、または登る過程で見えてきた構造の欺瞞を、the hill の麓にいるが故に見えない大衆に分かり易く伝えて蒙を啓かんとしたのだろう。
尤もボウイは「分かり難く」伝えているが、詞としてはこっちの方が面白い。読み解き甲斐がある。
レノンの場合は、歌を読み解く時間を与えるなんて悠長な事をやっている場合じゃなかったからこそ比較的平易で直截的な、それでいて印象を強くすべく韻律にしっかり則った詞で切々と訴えかけたのだと察する。
something to be の所でテンポを外れ先走る歌唱には彼の焦燥を感じる。
その焦燥を聴き手に伝染させ速やかな行動を促す為の意図的な方策だったのかも知れない。
Working Class Hero の一節
There’s room at the top they are telling you still
But first you must learn how to smile as you kill
If you want to be like the folks on the hill
A working class hero is something to be
A working class hero is something to be
how to smile as you kill は私見では処世術と同義。こっちの on the hill とボウイの fools でビートルズ(マッカートニー)の The Fool On The Hill を想起するが、言葉の使われ方や趣は異なる(ボウイの方は文字通りの意)。
印税その他、巨額の彼らの収入も資本主義構造下で初めて実現されるものだというのもまた事実。
レーベルや出版社等の distributor がいるからこそ、彼らへの集金も約束される。
レノンはしかし、ビートルズ時代だったと思うが、多額であっても実働に対する正当な対価であり、一部の資本家や投資家などが構造を利しているのとは全く本質的に異なる旨、発言していた記憶がある。
こういった考えが上記の政治的使命感を生んだのだろう。
ここでサビに戻って、ミッキーが出て来たんだから、喧嘩してる船乗り達はポパイとブルートの暗示に違い無い…
と思っていたが、シナトラの出演映画 From Here to Eternity (地上より永遠に)の中にダンスホールではないがバーでの水兵同士(一方はシナトラ)の乱闘シーンがある(sailor は船乗りと海軍水兵の両義)。
また別の出演映画 On The Town (踊る大紐育)には cavemen らしき描写もある。
シナトラは前者でアカデミー助演男優賞を取っているが、ボウイがこれらを意図的に引用していたならシナトラに対する当て付けは確定的だ。
そしていよいよこの歌の核心(と私が思う)部分に迫ります。
第2ブリッジに入ると第1ブリッジと同じ But the film is a saddening bore が唐突に繰り返される。
そしてこれまた突然、語り手本人 I が登場し、俺が10回以上も書いたからだと告白。
(before と公式掲載も、第1ブリッジと同じ or more と歌唱。ま、大して差は無い)
尚も告白は続く。それは再び書かれようとしている、俺があなた達に注目するよう頼む時に…
(この writ は古英語における write の過去分詞形)
前述の通り1番の語り手をボウイとすると、勢い2番もボウイ。
ただ一人称は出て来なかった。そこへいきなり作者本人が登場。
the film = 映画のみならずメディアを通して紹介されたり販売される様々なコンテンツがつまんないのは俺も何度も書いたからだ、と
発信側の人間の一人としてそこに加担している事実を白状。
そして今、再び書かれようとしている物とは、何あろう、この Life On Mars? なのだ!
you とは即ち本作を今まさに聴いている我々リスナーでありボウイが ask するまでもなく我々は focus してしまっているのです。
するまでもないのだが、発信者は ask to focus している様なものだという現状をボウイはわざわざ伝えてくれている。
こう考えると、第1ブリッジの ask の主体者(fools = they)も観客でなく、ボウイを含む発信側の人間を指すと解釈すべきか。
ボウイには、あの少女に愚者と罵られ、つばをかけられる覚悟があるのです。
そしてまた全く同一のサビへと展開。
あの少女の軽蔑の対象と自分の歌を同列に置くなんて!
謙遜を通り越し卑屈とも取られかねぬ、本質を伝えんが為の捨て身の表現。
entertainment の定義そのものにまで言及するかの様な、レノンとはまた少し違う覚悟の表明と言えるでしょうか。
Life On Mars? の表題命名の第一義が、世に阿り耳目を惹く事だったのは間違い無い。多くの人が聴いてナンボ。
今話題の火星探査と生命体に関する歌だ、と思ってレコードを手にした人も少なからずいただろう。
ましてやこの歌手には2年前に Space Oddity なるヒット作がある(こっちの両義に対し、あっちは駄洒落)。
蓋を開けたら内容は全く探査とは無縁だったが、このボウイの宇宙シリーズは後の Ziggy Stardust 等に繋がって行く。
その内容とは無縁の表題をサビの最後で少女が絶叫する、或は彼女に成り代わってボウイが絶叫する。
しかし本作の本当の主眼は第2ブリッジにボウイの一人称の告白という形で現れる。
その唐突な違和感に折り合いを付ける間も無く、また全く同じサビになだれ込み、聴き手は置いてけぼりを食ってしまう。
君達も本当は皮相しか見てないんじゃないかとボウイに見透かされているかの様だ。
受信者の方でも、本質に迫り、正当な取捨選択をしているか、我々はボウイに試されているのだ。
そこには Life On Mars? と My Way の二者択一も含まれるだろうか。
とまあこれだけ複雑で重厚な作品なモンだから、記者に訊かれて易々と答えられるわけない。それこそ野暮ってモンだ。皆まで訊くなと言い返すわけにもいかないし。
3:48
So, in retaliation, ha ha yeah right, in retaliation I wrote Life On Mars?
「だから復讐するつもりで、はは、そうさ、報復措置として Life On Mars? を書いたんだ。」
自身の英詞 Even a Fool Learns to Love ではなくアンカの My Way が採用された事に言及。
だから報復行動を採ったと明言している。やっぱ当て付け確定…
ではあるがレコード会社に対する皮肉も含まれているかも知れない。
ここへ来てアンカやシナトラの肩を持つわけじゃないが、本当に死期を悟った者の辞世としてなら、My Way だって否定すべきものではあるまい。今際の際にして尚、自省の辞世なんて、(言葉の上ではシャレみたいだが)シャレにならん。死んでも死に切れん。これを歌う者に対し、残されるであろう者達が喝采を送ればそれで良し。
ただ、しつこい様だがやはり前述の通り若輩が歌う代物ではない。否、歌うのは勝手だが、教科書なんぞに載せて義務教育課程にある児童生徒に歌唱せしめるのはアホ。今でも掲載されとるかは存じませぬが。
「思えば恥の多い人生でございました」
これはつかこうへいの辞世の冒頭。
My Way とは真逆の、自省の辞世。
「人間失格」へのオマージュもあろうが、対外的なものでなくきっと本心だろう。
想像力が産み出す廉恥心。エートス。
恥の文化が根付く(と言われた)日本に限らず、本物の発信者には必ず備わっているものだと思う。
とは言え、本当は死に際し、己の人生の肯定も否定も無かろう。
ただ産まれ、生き、死ぬ。人間以外の動物の死に様が遍く、斯かるものであるが如く。
冒頭に引用したシドに戻る。
あのカバーはただのおふざけパロディと一蹴できる様な代物ではない。彼は自身の死に自覚的だった。本家シナトラ以上に My Way を真摯に解釈し、自分の短い人生に当てはめて、辞世とした。しかしそれは本家に見られる自己正当化とは全く無縁だ。
「シナトラのオッサン、この歌の正しい歌い方を俺が教えてやるよ」とでも言っているかの様。
私はこの解釈を完了するのに何日もかかりました。然るにボウイはこれを半日で書き上げたそうな。
彼我の才の差を否応なく痛感させられて悔しいので、最後にボウイに悪態ついてやります。
ビデオで確認出来ますが、最後にボウイがエアピアノをするシーンがあります。あれはとってもダサい。あれをホントに弾いてんのはウェイクマン。他には Let’s Dance のビデオでもSRVのギターソロに当て振りしてっけどあれで全部台無しだ。いくらアンタがマイム習ってて得意だからってあれは頂けない。カッコ悪いぞ!参ったか、ボウイ!
あははは… む、虚しい…
かように他者を攻撃すると自身に跳ね返って来て虚脱感に襲われ苛まれます。
追記
本作はある女優との短く苦しい経験が基になっている(Melody Maker, 1990-3-24, pp 24–26)とする向きもあり、実際90年の Sound + Vision Tour 中にボウイ本人がこんな曲紹介をしている。
You fall in love, you write a love song. This is a love song.
これがラブソング?こりゃまいった。やっと読み解き終わってボウイの真意に迫れただろうと悦に入ってたトコなのに。
カットアップで書いたという話もあり、またそうでなくとも制作時には無かった意味を作者本人が見い出す事もあり得るとは思う。
でも自分の解釈が水泡に帰するのはオソロシいので、ここはどなたか、Life On Mars? のラブソング的解釈をして下さいませんか?
もひとつ追記
Comme d’habitude も曲先だったとの由。
別の作曲家が書いた曲に、France Gall との失恋を元にフランソワが詞を付け、その際少し曲にも手を加えた。
この曲に対する詞の正解はフランソワのものだろうと先述したが、曲先という事情を斟酌すれば、ボウイのも含め各々が曲調を元に詞を作ったわけで、全てが正解と言えるかも知れません。
アンカは引退を示唆するシナトラを慰留するに相応しい曲だと感じたのでしょう。そして曲の権利を得て(無償だったと言われる)、当時の me generation (自己中心世代)のナルシシズムに訴える詞を乗せた。
しかし当のシナトラは特に晩年、My Way を歌う事を憚ったそうな。自身の功績をひけらかす様で、あまり好きな歌ではなかったらしい。マフィアと結託し政界にも影響力を持つ、ショウビズ界の権威主義的な親玉の様にここで描いてきたが、彼にもフツーの廉恥心を持つ一面があったって事なのかも知れません。
この歌の作者はセルジュゲンスブール
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