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飛び道具は捨て、いざ尋常に!

石原莞爾「最終戦争論」(昭和15年)より引用

今の世の中でも、もしもピストル以上の飛び道具を全部なくしたならば、選挙のときには恐らく政党は演壇に立って言論戦なんかやりません。言論では勝負が遅い。必ず腕力を用いることになります。しかし警察はピストルを持っている。兵隊さんは機関銃を持っている。いかに剣道、柔道の大家でも、これではダメだ。だから甚だ迂遠な方法であるが、言論戦で選挙を争っているのです。兵器の発達が世の中を泰平にしているのです。この次の、すごい決戦戦争で、人類はもうとても戦争をやることはできないということになる。そこで初めて世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着するのであります。

当時の言論戦が高度に思弁的で理路整然としていたのか、それとも有権者の生理に訴え掛ける多分に情緒的なものだったのか私は知りません。しかし少なくとも、選挙カーで我が名を連呼し無差別に握手しまくる現代の選挙戦よりはマシだったろうとは容易に想像が付く。

火器兵器が腕力の行使を抑止し天下泰平の実現を助けるという石原の発想は正しい。これは警察等の暴力装置が多くの国家の治安維持に一定程度貢献している現実からも分かる。ただ、彼の言う「決戦戦争」即ち第二次世界大戦において、彼の想像した「兵器の発達」をも恐らく越えていた、そして少なくとも当時における最進化型であった二種類の大量破壊兵器が日本での無辜の人体実験に使われ、戦争自体の決着はハッキリ付いたが、「世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着」する事はなかった。複数の官軍は更に新たな兵器の開発に腐心し、新たな対立軸を産んだだけだった。ケリを付ける筈の兵器の開発にキリは無かった。結果を知る我々からすればこれも殆ど必然と言えようが、石原はこの逆説的平和実現を本気で希求していたのだろう。

米国にとっての地政学上の軍事要衝に成り下がり主権国家としては蚊帳の外に追い遣られた賊軍日本は、インチキな平和に到着する事になった。それでもその贋作を愛で、またそれに憧れる者は少なくなかった。何せ身の周りの平穏無事は、それ以上思いを馳せる事をしない者にとっては、紛う事なき厳然たる事実であり、真実の平和であったのだ。「本当の平和に到着」したと多くが勘違いした。そしてそれは彼らにとって、平和憲法の美名の下に永劫存続すべき、またさせるべき規範となった。そんな少し想像力の足りない「インテリ」達の標榜した共産主義や社会主義の正体は、オルタナティブなカッコ良さを持つ、本質的には機能せぬ仮託された「理論」だった。彼らにとってのレーニンは差詰め、反逆のロックスターといった所か。自虐的なまでの「反省」が高級な思想と見なされ、言論で行う筈の「総括」が暴力を意味するに至った。これ以上の皮肉があろうか。

さて、史実の捏造は言論における暴力どころか飛び道具と言えよう。
朝日新聞は、従軍慰安婦に関するでっち上げを認めたものの、その記事が与えてきた国内外へのインパクトについては知らんぷりを通そうとしたのだろうか。無論そっちが本筋だろうに。後々何かの言い訳に使えそうな、「認めた」という既成事実を得たかったに過ぎないのだろう。
しかし皮肉な事に、連載を任せていた、言わば身内への対応が引金となり、自身の中途半端さが浮き彫りに。
今、最も人気のあるジャーナリスト、池上彰の軽快で毅然とした態度に大新聞社ともあろうものがオロオロ。で、挙句、ここへ来て世論に鑑み(つまりは保身の為に)、当初拒否した、謝罪を求める彼の記事の掲載を認めるハメに。
そもそも彼もきっと朝日の対応を試したのではなく、マトモな方向へ引導してやろうとしたのだろう。

ま、どの道、その後手後手の保身の企ても奏功せず、発行部数減少という社会的制裁を喰らうのも時間の問題だろうが、見限るばっかじゃカワイソ過ぎる。同志の集まりの筈の政党の中にだって意見のかなり異なる者が混在する。朝日の中にだってマトモな想像力を備えた者はきっといるでしょう。そんな彼らの自浄を期待し、行く行くは、虚偽によるミスリーディング兵器なんぞ完全に放棄し、尋常なる勝負が出来る言論機関になって欲しいものだ。
ま、こんなエールなんぞ、あちらさんにゃ届かんだろうけど…

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