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歌詞和訳 Sting – Fragile コード

1980s

1987年の第2作アルバム …Nothing Like The Sun 所収。

Fragile

(Sting)

Em7 Am7
If blood will flow when flesh and steel are one
B7 Em
Drying in the colour of the evening sun
Tomorrow’s rain will wash the stains away
But something in our minds will always stay
Perhaps this final act was meant
To clinch a lifetime’s argument
That nothing comes from violence
and nothing ever could
For all those born beneath an angry star
Lest we forget how fragile we are
肉体と鋼鉄が合わさり血が流れ
夕日の緋に染まって乾いてしまっても
明日の雨がそんな血痕など洗い流してしまうだろう
でも我々の心には必ず何かが残る
この最後の心に残るという現象は
暴力からは何も生まれないそして何も生まれ得なかった
という人間の一生の長きに亘る議論に
決着を付けるべく起こるのかも知れない
怒りの星の下に生まれた全ての者達の為に
我々人間がいかに脆い存在であるかを忘れないように

Am B+7
On and on the rain will fall
Em Em9 Em
Like tears from a star
Like tears from a star
ずっと雨は降り続けるだろう
星が流す涙の様に
星が流す涙の様に

On and on the rain will say
How fragile we are
How fragile we are
ずっと雨は伝え続けるだろう
人間がいかに脆いものであるかを
人間がいかに脆いものであるかを

(interlude)

On and on the rain will fall
Like tears from a star
Like tears from a star
ずっと雨は降り続ける
星が流す涙の様に
星が流す涙の様に

On and on the rain will say
How fragile we are
How fragile we are
How fragile we are
How fragile we are
ずっと雨は語り続ける
人間がいかに脆いかを
人間がいかに脆いかを
人間がいかに脆いかを
人間がいかに脆いかを

ネット上に既存の本作の対訳をブラウズしていたら、その多くは全く同じもので、どうやら歌手で訳詞家の中川五郎という人の手による対訳の転載だと分かった。CD付属のものらしく、即ち公式の対訳だ。
以下は、中川訳の、Perhaps に始まるバースの後半部分の孫引き。

事によるとこの最終的手段は
暴力は何の解決にもならず
怒れる星の下に生まれた者たちにはなす術がないという
一生かけての主張を捩じ伏せるものだったのかも知れない
人というものがこんなに脆いとぼくらに思い知らせようと

… 何度読んでも、私の読解力が足りないのか、殆ど何を言っているのか分からない。

this final act
明確な指示語が付いているのは既出の何かを指すという事。
中川訳の「この最終的手段」… どれを指しているつもりなのか…
final act = 終幕
成句としてのこんな意味なぞ知らずとも、「この最後の行い[行為]」と素直に逐語的にやっていれば少なくとも文脈を断絶する事は無かった。

「者たちにはなす術がない」
こんな事、スティングは一言も言っていない。
argument を説明する that節中の nothing ever could をここにくっ付けて訳出したのだろう。
構文の把握が滅茶苦茶。

「主張を捩じ伏せる」
日本語にもなった、ボクシングのクリンチからの連想でこうしたのだろう。
動詞の clinch に、クリンチする、の意があるのは事実。ただ、自動詞としてのみ。
相手をクリンチする」という目的語を取る言い方は英語ではやらない。
こんなの辞書を引きゃ分かる事。まさか自他動詞の別を知らんのか。
他動詞の clinch は、(議論に)片をつける、の意。つまりは settle に近い。
「捩じ伏せる」なんてトンデモない。で、そんな勝手な解釈をしたモンだから argument の訳語に、「捩じ伏せる」にはピッタリの「主張」を当てた。
横暴な強者が弱者の言い分をはねつけるという構図をでっち上げて事を大袈裟にし、話を何となく劇的にした。
それ以外に彼のこの牽強付会な訳出の動機が私には説明できない。

それでいて perhaps には「事によると」なんていう辞書的教科書的な対訳を付けている。
perhaps = per(= by)+haps(<happen) = 多分(可能性の大小を問わない)
私の対訳では、かも知れない、と結ぶ事でその意を示している。

「思い知らせようと」
もう流れで何か強い意志を見出さずにはいられなくなっちゃってます。
lest(<less+that) = しないように
この forget は現在形ではなく原形。叙法が仮定法現在で、should が省略された形。

「プロ」がこんなにもお粗末で杜撰な仕事を平然とギャラを取ってやっているのだが、その「被害者」にして実は「共犯者」でもある人は多いと踏んでいる。
よう分からんが何となーくカッコいい表現に際し、それを詩的だの文学的だのと安易に評価してしまう風潮。文脈性なんぞはシカト。

キリンジという歌手が以前、自身の歌詞を文学的だと言われる事に抵抗がある旨、テレビで話していた。
よく分かる。そう言う者の多くは皮相しか見ていないと嗅ぎ取ったのだろう。

私的な和訳サイトに、意訳なので間違っている事があります、という但し書きを見る事がある。
意訳の定義を履き違えてるんだな、で済む話かも知れないが、本来なら翻訳に意訳も直訳も逐語訳もへったくれも無く、一言語から別の一言語への可及的忠実な変換があるのみ。
強いて言えば、忠実な変換を粛々と行った後に、和訳ならば日本語話者に対し分かり易くする為に、より慣用性の高い言い方に置換してやる事、が意訳の指す所だろう。
忠実な変換作業の段階でつまづいている(かも知れない)事を、「意訳」を盾に平然とごまかす。
知ってか知らずか翻訳[言語変換]者が絶対やってはならぬ、原文の恣意的な改竄を結果的にしてしまっているのだ。そこに原作者への敬意なぞある筈が無い。
そんなモン、意訳ではなく「恣意訳」だ。厚顔無恥も甚だしい。
プロからアマまで、こんなごまかしとそれを許容する空気が蔓延してしまっている気がして仕方が無い。
まさかそんな誤訳に付随する恣意性にすら価値を見出そうとする意味不明な文化が日本にはあるのか。

彼には「ボブ・ディラン全詩集」という業績があるそうな。

どひゃー、何ちゅうお値段。私は勿論買いません。タダでもいらん。

私は木だけで森は見ていないが一事が万事だろう。
上に引用した「木」は詩というより寧ろ散文と呼ぶべきもの。
そんな、独立した名詞句なども含まれぬ、構文のしっかりした論理的な詞に対してすらこれだけ「詩的」(= 恣意的)な和訳を付けてしまっているのだから後は推して知るべし。ただただ原作者の詩人ボブディランが気の毒。

彼の「間違え方」を考察する事が、言語学や心理学、延いては日本の英語教育方法に役立つなんて事はあるかも知れない(私にとっては社会学的な考察をするきっかけにはなった)。

あ、言い忘れたので…
ド頭の if には even if の含意があるが、中川訳には無かった。
で、対訳の日本語は少しオカシナものだったがギリギリセーフと見なし、一々あげつらうのはやめた(と言ってあげつらってしまった)。

さて、バースの前半部分の行為(act)と思しき言葉を拾うと、一つになる、流れる、乾く、洗い流す、残る。
で、final のものは、残る(stay)。
これは自動詞で、主語が無生物なので、日本語では行為と言うより現象と呼ぶ方がしっくり来る。だから私の対訳には後者を付した。
これは正に意訳と呼ぶべき作業。

私は当初、一つ前の、洗い流す(wash away)を指すとも考えていた。それは、他動詞で「行為」的だから。
しかし、それでは文脈が通らない。するとやはり終幕と考えれば、この歌の主眼とも言うべき、心に残る、というのが相応しいと結論付けた。
これは正に解釈と呼ぶべき作業。

これら、変換、置換(意訳)、解釈、の作業はそれぞれ独立していなければならない(構文の把握なぞは変換以前の話)。
しつこい様だが、これらをごっちゃにして変換ミスを指摘された時の言い訳にしようとする者が少なくない様に思う。
言語という、現代ではかなり高度に体系化された、事象を表す手段をぞんざいに扱ってはならない。
ただ一方、規範文法等の権威を盾に取るが如き、行き過ぎた原理主義では、言語の実際を正確に把握できないだけでなく、意思伝達の道具としての言語の本来的な価値をも毀損しかねないとも思う。

解釈から先は、原作者すら踏み込むべからざる、受け手によって異なる主観的真実があってもいいだろうし、多くの原作者はそれを承知してもいる。
しかし、翻訳者が意識的無意識的にズカズカと原文の領域に踏み込んで荒らし回る事を承知する原作者はいないだろう。そんな所に自由度があるわけではないから。

さっき、可及的、というしゃらくさい漢語を使った。なるべく、出来る限りの、という意味。
しかし中国語辞書によれば、この言葉には、アクセス可能な、という意味しか無い。
なるべく、という意を表すのは、尽可能、尽量。
これらは日本では使われない(少なくとも私はこの用例を知らない)。
この漢語に限った話ではないが、日本で最初に使った人、及び変換ミスのまま普及を許した人達は、なぜ元祖を参照しなかったのか。
何となく慣用に至ってしまう風潮は昔からあったのだろうか。
「恣意訳」に通じるものがある。
ついでに、「翻訳」も調べてみた。これはこのままでも通用する様だが、類語の中に、「平移」というのを発見。
我々にも分かり易いが、これには動の意味もある。
言語変換の本質をよく表している言葉だと感じた。翻訳とは平行でなきゃダメ。
無論、完全な一対一対応などあり得ないので、「可及的」平行でしょうが。

随分と前置きと言うか悪態が長くなってしまいました。
それではまず、sting.com より引用。

In the current climate it’s becoming increasingly difficult to distinguish ‘Democratic Freedom Fighters’ from drug dealing apolitical gangsters from Peace Corp workers from Marxist revolutionaries. Ben Linder, an American engineer, was killed in 1987 by the ‘Contras’ as a result of this confusion.
‘Nothing Like The Sun’ A&M Press Release, 10/87
(原文ママ、Peace の前の from は恐らく誤植)

87年、米国人エンジニアが、レーガン政権の資金提供を受けていたニカラグアの親米反政府民兵(コントラ)に殺されるという事件が起きた。
スティングはこの皮肉な事件を本作のモチーフにした。
それでも詞を書くに当たっては事の一般化という作業がなされている。
それが無ければ詞は新聞記事の様な物になっていただろう。
(例えば Deep Purple の Smoke on the Water などは記事、或は目撃談の様な詞。それはそれで興味深いものである事に変わりは無いが。)

I never tire of singing my songs. I really don’t. I love performing. I’m still performing songs I wrote 15 years ago, and I don’t really think about it. I think every time you perform a song you have to breathe new life into it, and sometimes the meaning evolves. The meaning of a song like ‘Fragile’ changes yearly. When I sing it now I think of Bosnia and Yugoslavia.
The Miami Herald, 2/94

そして、自身が一般化した詞の意味するところが、歌う度に、または時間の流れで変わると明言している。
受け手どころか、原作者自身の主観的真実も時と共に移ろうと言うのです。
この発言のあった94年には、作者は本作を歌う事で内戦中のボスニアに思いを馳せた。

本作を貫くのは虚無感。
元々スティングの表情は豊かな方ではなくニヒルだが、このビデオでギターを爪弾きながら歌う彼は、いつにも増してその色が濃い。

涙の様に天から落ちる雨。
皮肉にもそれは無情の雨となって、一人の人間がそれまでそこに生きていた証である血痕をすら簡単に流し去ってしまう。
人間なんてそんなにも脆い、はかないものだと言わんばかりに。

涙のカタルシス作用は人間の記憶を少しずつ削り去るものだろう。
ところが星の涙たるこの雨はそれに抗するが如く、降りしきってメッセージを伝え続ける。

On and on the rain will say
How fragile we are

ところで、積極的に平和を訴え掛けるというレノンのやり方は失敗だった(今だに内紛や戦争がゼロでない事を以って失敗と見なしています)。
人が虚しいと思う気持ちに訴える方が、時間はかかるだろうが、実効性はいくらか大きいなどと考える。
野坂昭如が火垂るの墓でやった様に。

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