前回、朝生を取り上げたが、そこで触れた日本の長年のデッドロックを象徴する様な動画を見つけました。
今より30歳若い田原が司会、左右に二人ずつ、概ねリベラル、保守の布陣。
朝生の前身の様な番組。
テーマは(教育制度問題と)改憲の是非可否、つまり今とやっとる事は何ら変わらん。
次回の朝生でこれをこのまま放映しても内容的には何ら時代錯誤は起きまい。
憲法に関しては少なくとも30年間、何も無かったに等しい。
ただ集団だの個別だのは出て来ない。修飾語の無い自衛権のみ。
無論当時からその概念も言葉もあったろうが、線引きは特に重視されてはいなかったという事か。
するとつまり時を経て、細分化という、更なる事の矮小化が生じたと言えまいか。
「官学の文学部で哲学をやろうなんて者に高等数学の受験を課すのはバカげた教育制度だ」
物言いの理路整然たる石原がこんな発言するんかいと耳を疑ったが、会計士になろうと一橋に入ったのに断念した過去に鑑みればむべなるかな、数学コンプレックスをこじらせとるんだろうと勝手に合点した。
記号的な論理性は無論言語にも内包されるだろうが、数学の勉強で顕著に発達するもの。数学者であり哲学者でもある偉人の挙例なぞは不要だろうが、石原の論理はそんな多能な偉人達の柔軟で縦横無尽な思考の功績を部分的にせよ無視している事になる。
彼に似合わぬ軽率で無知な発言と感じた。
センチメントへの短絡を批判しながらも石原自身が(短絡とは言えずとも)そこへ帰結する様をよく見る。
それは、言語のみから論理性を獲得構築した、数学及び数学教育の意義への理解の足らぬ者の為せる業だろうと勘繰られて仕方あるまい。
自身の論の無謬性を信じる者同士の討論はすぐに衝突する。しかしその事自体には何ら建設的な意味は無い。
討論の場は、自身の考えを開陳する為だけにあるのではない。立場を異にする者の発言の中にも優れたものがあるんじゃないかという謙虚な態度が必要だろう。それ程熱心に相手の言う事を傾聴して初めてまともな反論や論破も為し得られようもの。
実は(意外にも)この5人の討論の中に、その種の態度は散見した。皮肉やポーズを含むものもあったが、それはそれで議論の緊張の中に適宜差し挟むべき諧謔と言うべきか。円滑な進行や相互理解には寧ろ必要かも知れない。もっと言えば、参加者に酒を飲ませたっていいだろう。ま、勿論泥酔はマズいし、司会者はシラフじゃないといかんだろうが。
自然現象を説明する物理法則を扱う訳ではなく、人間が勝手に作った制度や規則がテーマの社会科学的論議であれば尚更、無謬を徒に望むのはマズいだろう。
この世の社会制度や宗教に、完璧な普遍性を有するものなぞあろうか。そして永劫存続し得るだろうか。
かのチャーチルも、「民主主義は現代の制度の中では最もマシなモノだ」だか何だか言ったそうな。
これは、様々な可能性の芽を勝手に摘み取るな、たかが人間が作り上げた制度だ、という訓戒と取ったが、詳しくは分からんし、原文も知らん。ちょっと知ったかぶりしてみました。
ハマコーは人の話を聞く気はある。ただ挑発に乗り易いだけ。しかしその挑発者、小田の討論作法は概ねひどい。
そも自身の主張は通らないとの諦念があるなら土俵にはあがらん事だ。
相手に分からせようという議論の本義に則る姿勢は見られない。寧ろ、お前らにゃ分からんだろという態度。そしてそれを以って自身の孤高を示そうとするかの様だ。観客に自身のシンパが多い事も知っていたに違い無い。言いたい事は分かる。が、議論の作法としては卑怯。シンパの拍手喝采を享受して悦に入るべくカメラの前に登場したのか。
どこまで本当か分からんが、KGBから資金援助を受けていたってのも頷ける。資金的かつ権威的な後ろ盾があればこそあんな乱暴な、してその実とても臆病な態度も取れようってなモンだ(反論に対し、冗談言っちゃいかんだの漫才だのと都合が悪くなると論の継続を自ら途絶して有耶無耶にする。漫才って言葉は野坂も使ってたけど、漫才に論理性が無いという観察は実に浅はかだし、そも少なくとも漫才に途中放棄は無く、オチまで責任を持って演ぜられる。そんな事したらシンパから喝采どころか客から怒号が飛んでくる)。
小田の作法態度に批判的に言及した石原は全く正しいし、彼が一番(討論的)行儀は良かった。
二番は野坂。彼は、互いを懐柔牽制し合う馴れ合いの茶番には表情ひとつ変えず全く参加しない(たまに冗談を発しはする)。隙を与えぬ姿勢だ。相手の話もちゃんと聞いている。
出色は最後の総括だろう。
人間の尊厳を語る石原の言葉を引き、全否定はせずともそれを他者(究極的には国家だろう)に利用される恐れがある事を説く。生理の領域を理性で石原より更に深く掘り下げて見せる。火垂るの墓にも描かれた虚無感に通底する、他者の情に絆される安易さへの警鐘。より高い普遍性を持ち得るのは野坂の言だろう。石原は、安易なセンチメントを語ったわけでは勿論ないだろうが、自身の言葉を自動的に踏み台にされた恰好になってしまった。
私はしかし、二人とも(情緒的に)好きだ。
左の焦燥を爆発させても右に引火するだけ(逆もまた真)。不毛なマッチポンプ(マッチだけか?)。これを以って(今の朝生で言う)「激論」演出成功、高視聴率獲得、万々歳とするならば制作側の罪は大きい。議論ってああやってやるんだ、と面白半分にでも勘違いした者は(特に若者に)多かっただろう。そして自身を社会的ステレオタイプにはめ込み、何だかいっぱしの論客にでもなった心地を得る。それが自身の多様な可能性を押さえ込んでいる事にも気付かぬまま。
すると昨今主にネット上に頻出の「炎上」なる言葉はなかなかに深長だが、多くは匿名性で自身の臆病に蓋をするものだから放火に近かろう。傍観者もポンプで水をかけずに油を注いで面白がる。
日本にウヨやサヨが生まれたのは、こうした討論番組が、その討論作法自体には殆ど注意しなかった事も大きな要因の一つだろう。討論内容と同じ位大事なのに。
結論
論客である事は討論者の必要条件に過ぎぬ。討論のルールを守って初めて必要十分。
情緒を前面に出したいのならいっそ殴り合いでも見せてくれ。その方が見る側としてもケジメが付け易い。
論客同士のマジ喧嘩。きっと視聴率も期待出来よう。
その暁には、「激論」なぞ言うハンパな修飾は外し「激闘」が良かろう。
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