スポンサーリンク

歌や言葉について

本サイトは洋楽和訳を扱います。
対訳だけでは歌の概要が掴み難い場合に筆者なりの解釈を後述しています。
完全な解釈など作者本人にしか出来ない(否、本人にも不可能な場合もある)でしょうが、時代背景や経緯など、言外の要素も加味しながら作者の真意を推測していきます。
対訳は日本語としては倒置したり語順が前後する箇所もあります。
文法や語法、語源について詳述する事もあるので受験生にも役立つ事請け合い。
でも取り上げる歌は古いのが多いから受験生は聞かないか…

吉田拓郎の様に詞先を標榜する向きにも是非一読されたく存じます。
(彼は詞を書いてから或は他人の詞を読んで曲を作る旨、テレビで発言していた)
しかし私自身はどちらかと言うと曲先派。
言語以前に音楽ありきと考えるからです。音楽と言っても今ある完成されたものでは勿論なく、声帯から発する音の高低長短強弱を以って自身の意思感情を他者に伝えんとした音声信号の事です。
このレベルのことなら、音源は声帯に限らぬが、ヒト以外にも実践する動物はいると思います。
即ち音源と聴覚を併せ持つ他の動物の中にも狭義の音楽文化がある。
ヒトの場合それが発展的に体系化されて話し言葉になったと考えるので、感情に直結するのは音楽。
調の不可思議がその証左の一つと言えるでしょうか。
一般的に長調(メジャー)は明るい、短調(マイナー)は暗い印象です。
印象を与えるという事は即ち、感情(生理)に直接影響するという事。
しかしこれがなぜなのかを言語で明確に説明するのはほぼ不可能でしょう。
ひょっとしたら科学的に説明する学術論文などがあるのかも知れぬが少なくとも私は知りません。
(あったら是非拝読したい。私に理解できるかという別の問題がありますが)
説明的である筈の言語に説明し切れないものがある。
逆説的ですが、だからこそ尚更、音楽(曲)を飛び越えんばかりに、感情までの距離を縮め得た言語(詞)こそが、名歌名曲を構成し得ると思うのです。
(これについては詞先曲先を問わないだろう。以下に示します)

詞先曲先とよく二元論で語られるが同時進行だってあり得る。詞と曲が互いに干渉触発フィードバックしながら生まれる歌もあるでしょう。さっき、感情→音楽→言語と三つに分けましたが、これだって少なくとも名曲を語る文脈では、境界線を明確に引く事なぞあまり意味の無い事かも知れません。名曲と呼ばれるものにおいては、意思感情と音と言葉がべったり癒着していると思うからです。
だからこそ歌全体で我々の琴線を鳴らし、三位一体で心に残る。
「琴線に触れる」が一般的用法みたいですが触れただけじゃミュートしてしまい何も起こりません。
鳴らしましょう。少なくとも私の心の中の琴線はよく鳴ります。
英語だと、strike[touch] the right chord で、触れるだけじゃなく打つ方も表現として有るし。
日本では恐らくこの touch の方を和訳したものだけが定着したんだと思います。
right が肝だが日本版にその含意なし。これは闇雲に打って不協和音(discord)を出しちゃダメって事です。
繊細なる入念を以って「正しい」弦を鳴らして初めてきれいな和音が鳴る。
その和音のコードの英綴は chord で、その語源は(日本語だと家電製品などのコードの)cord で発音も同じ。
さらに遡ると動物の腸。つまりどれも振動して音源たり得る細長いもの。
先出の声帯は the vocal cords[chords]。一対あるので複数形。声「帯」とは見事な訳出だ。
話が逸れたが、この慣用句の存在自体が感情と音楽の距離の近さ、親密ぶりを表しています。
私自身は「琴線を鳴らす」を辞書に載せて欲しいけど。

辞書と言えば、私は英和辞典を引く時は恥ずかしながら今でも ABC の歌を心の中で歌います。
(尤も今じゃ薄紙をペラペラめくったりせず、ネットに頼ってばかりだけど)
この歌の作詞者の意思はローマ字の順番を覚えさせようという特殊なものではあるが、既存の曲にうまく詞を載せた替え歌の名作と言えよう。なんせ作者の意思(意図)通り、私は今でも詞を曲と共に覚えてんだもの。
曲が付いてなきゃこんなに明確に心(記憶)に残らなかったろう。
これも音楽が意思感情に直結する事の証左の一つと言えようか。
因みに ABC の更なる替え歌、
ABCD ブタのケツー ハナクソ丸めてソーセージー
ってヤツも今だに記憶にべったり癒着。
この手の替え歌は地域性があるんだろうけど、しかしキッタネー歌だ。
でも面白がってハナクソほじりながら何十回も歌ったんだろうな。音楽恐るべし。

そんな名曲から詞だけをひっぺがして書き言葉に起こした視覚情報だけの文字の羅列にされても尚オモシロイものを取り上げます。ま、所詮私の嗜好主観ですが。(ABC は取り上げません)

音楽的情報を少しでも足すべくコードを詞に添えているのもあります。
私は音楽理論は分からんし楽譜すらほぼ読めませんが、ギターを弾きはするので
例えばピアノ伴奏の曲の F/E を FM7 とやってギターで弾きやすくしています。

こんな長ったらしい説明はもうウンザリという向きもあられようが、これは私が悪いのではなく言語の属性が悪いのです。
冗長かどうかは別として、実際今筆者たる私がここでやっている意思疎通の手段は書き言葉です。
音声を伴う話し言葉ですらなく、ましてや音楽では勿論ない。
伝達手段として原始だった筈の音楽を能動的に操れる人は今や圧倒的少数だ。
その少数の中の多くは職業音楽家だ(と見なされている)。
全ての職業音楽家が、音楽を意思感情の伝達手段となし得ているとはとても思えぬが。
ま、それはさておき、私の様な凡人は意思を伝える為には言葉を尽くすしかない。即ち修辞。
そういった技術的な事は本来の意思疎通からすれば枝葉にも見えるが、思いを伝えんとする歯痒さから生まれた根幹の部分に近いとも言えようか。
修辞学(rhetoric)は元は演説の説得術なんだそうな。即ち聴衆の心理をいかに操作するか。
言語を以って聞き手の意思感情にどれだけアプローチできるか。
さっきの strike the right chord にも繋がるが、これは言語そのものの課題だとも言える。

私がここで扱う英詞における修辞技法で多いのは押韻(rhyme)、とりわけ末尾の音節を揃える脚韻です。
連続する単語の頭(子音)を揃える頭韻(alliteration)は散見する程度。
これらの技巧ははっきり言って枝葉、即ち装飾的機能の修辞。
ところが韻ありきで詞を構築したと思しき例も少なくない。
でもこれは古典へのオマージュでもあろうから一興とみなしましょう。
実際耳に心地よい、オモシロく聞こえる事自体に意味がある。字面で見てもオモシロイ。
脚韻だと分かる様に改行してあったりする。頭韻は見[聴き]落としやすいが。
尤も詞の内容の面のみからすれば、押韻なぞ無くてもいいものだと思います。
身も蓋も無い言い方ですが、作者の真意の表出の際に、ノイズになりかねない為。
修辞、レトリック、rhetoric などと言う語自体が、誇張だとか言葉のあや、美辞麗句といった負の意を派生的に付与されるに至ったというのもまた事実。
作詩用の rhyming dictionary(押韻辞典)に至っては、んー、何だかなー。
そんな代物をペラペラ繰って歌詞を捻り出すなんざ、無粋の極みだ。
好きな歌手がもし裏でそんな事しとったら… 興醒めもえートコだ。

冒頭に吉田拓郎を引き合いに出したが、あんな有名な作家が詞先だと手の内をバラした事自体が興味深い。
他人の詞も含め、紙に書いたそれを見ながらギターで和音と節を付けてったんだろうなと創作過程を想像するだにオモシロイ。
彼は自分のやり方が詞先だと言及しただけで、曲先はダメなどと言ったわけではない。
私も詞先を否定する気など更々ござらぬ。言語の生成過程に鑑みると曲先派になるというだけ。
(創作のきっかけは人それぞれ。積極的に肯定はしないがカットアップだって一つのモチ-フたり得るだろうし、個人的には興醒めだがそれこそ先の押韻を元に詞を綴ったり、コード進行から旋律が浮かぶ場合もあろう)

だが松本隆はそれをやった。
テレビで彼が、歌は詞先じゃないとダメだ、と佐野元春に語るのを聞いた時はビックリした。
自分のやり方は詞先だと言うのと、詞先じゃなきゃダメだと言うのは大違いだ。
詞が先にあってそれに曲が付けれる作曲家じゃなきゃダメ、と言ったのだったかな?
ま、どっちにしても、大きな意味を持ち得るのは曲より詞だと思っていると取られて仕方なかろう。
まず言葉ありき、だと。でも、んじゃクラシック音楽やインスト曲は幻け?
映画音楽などの場面に即した曲や効果音に至ってはどう解釈し受け止めればいいのか。
ヒトの言語の生成過程に少しでも思いを馳せる想像力もない者が言葉を使う芸術の創作に関わってんのか。
そこまで遡らずとも、紙に書かれた詩や歌を黙読したり素音読(歌唱に対する筆者造語)する事は、詠唱や声明(しょうみょう)に比べれば、遥かにその歴史は浅いという事実を知るべし。動的な歌が先にあって表記文化の生まれた後に詞だけが抽出されて静的な命を与えられ、その存在が明確になったという順番。
彼の詞が嫌いというわけでは全くないが、一時代を築いた職業作詞家の驕りの成せる発言と断じざるを得ぬ。
いや俺は作詞家であって詩人や歌人、況してや坊さんじゃねーから、などという逃げ口上は私には通用せん。
(反論されたわけでもないのに勝手にそこまで想像した自身のパラノイドっぷりに噴飯)
ま、これが御本人のお耳に届いたとしても、私ごときの批判なんぞ歯牙にも掛けんだろうが。

B-DASH という日本のパンクバンドの「適当アドリブめちゃくちゃ語」から成る詞をご存知だろうか。
日本語でも英語でもないほぼ無意味な音の羅列だが、これを初めて聴いた時(2000年前後)、巷間溢れる意味ありげに装った陳腐な詞に対する強烈なアンチテーゼに思えて痛快至極だった。
メリハリのある演奏歌唱との癒着っぷりもお見事。
他には英語の教科書から例文を抜いて作った英詞もある。わははは、サイコーだ。
洋邦数多ある Nirvana のカバーの中でも彼らがやったヤツが一番秀逸。
感情と音楽の近しさや相性を肌で感じながら演奏し歌唱する事によって初めて、彼らの様な(職業)音楽家こそが、音楽を意思感情の能動的な伝達手段と成し得ているのだと私は思う。
「言葉などいらない」という言い古された陳腐な言辞は、彼らの様な感情伝達達者の口から発せられた時には、その陳腐の殻を破り本質的に機能し始めるだろう。
ま、本人達からしたらこんな分別臭い能書きなぞ大きなお世話だろうが。

北京ベルリンダブリンリベリア… この詞も一見 B-DASH 同様、わけが分からない。
めちゃくちゃ語と違うのは、言語自体は明瞭な点。
井上陽水の意思感情にかなり近い位置の言語表現なのでしょう。感興のまま綴った詞。
ただ彼の感情に近くても、我々凡人の言語感覚からは遠すぎてなかなか掴めない。
感情音楽言語三位一体の名曲であっても、言語が多少なりとも説明的でなければ解釈の取っ掛かりがない。
この様な詞はもはや我々凡人が扱える言語の外にあると言えようか。手を伸ばそうとも触れない。
言語明瞭意味不明瞭などというレッテルを貼られた竹下登だが、彼の言語が我々のものとは別次元にあっただけで、彼自身にとっては意味も明瞭だったんだろう(多分)。
てなわけでこの手のものは取り上げません。(てか取り上げたくとも取り上げれぬ)
私が解釈を試みるのは、言語から音楽までの距離は一見ありそうだが、糸口を見つけ出し、それを手繰って何とか作者の真意に近づけそうな歌の詞です。
尚、解釈が及ばぬ場合は分からないと開き直りますが、悪しからず。

コメント