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右も左も分からない

自身を、他者を、右だ左だ中道だと決め付ける事にどれだけの意味があるのだろう。
社会的ステレオタイプにはめて、またはそれを流用して論を進めるのは容易だ。そして受け手も理解した気になり易い。その方が都合が良い事もあろう。しかしそれで取りこぼしてしまうものも少なくないだろうし、自身の可能性をも過小に制限しかねない。

完全な善人も完全な悪人もこの世にはいないという、人の多面性の話の中で David Lee Roth (米ロック歌手)が冗談混じりに一言こう挟んだ。
「アドルフヒトラーだって小犬を飼っていた」
この人ただのパーティ野郎じゃなかったんだ… 自身の先入観を恥じ、同時に彼の冷静な洞察と多様性への寛容に感服。

パーティ(party)と言えば政党…
荒唐無稽との誹りを覚悟で言います。この政党ってヤツ、何十年も前ならいざ知らず、この現代に必要か?
正式な定義は知らんが、政党とは所属議員の意見政策の集約装置って認識で、指して大外れでもあるまい。かつては入力された複数の意見を纏めて一元的な出力を得るというある程度の機能がありはしただろう(ま、それにしても党首や派閥の領袖に殆ど右へ倣えだったろうが)。そもそも議員の仕事の第一義は状況に即した法案作り。本来彼らは立法委員。呼称もこっちの方が断然良い(台湾はこっち)。と言うのも議員とは即ち議会構成員だから、議会なる権威を笠に着る者って印象が強い。政党に所属する者はもう一個権威がくっ付く。だが、有するベクトルはゼロに近い。ま、それは実際をよく表しとるんかも知らん。
一方、立法。これは非常に能動的主体的な動詞で、委員は委ねられた者。この呼称である限りは、アンタに大事な法律作りを任せた、行って来てくれ、と、常に支持者に背中を押されとる様なモンで、そうすりゃ嫌でも政策立案に集中するってモンだろう。さすれば我々だって尊敬の念を持って呼ぶさ。それにそんな本来の仕事をキチンとこなす人が高給取ったって誰も文句なぞ言わんだろう。

案件ごとに政党の垣根を越えた会派なるものがあるんだからなぜそれが決定単位にならないのかさっぱり分からん。
個々人は自分党党首でいい筈。そうすりゃ少なくとも右も左も分からん零ベクトルの素人は恥ずかしくてとてもじゃないが立候補なんぞ出来んだろう。
さすがにもう現役じゃないが、杉村某なんぞは比例という制度の問題もあるが、民意が選出したんじゃなく、党が引っ張り上げたミュータント。彼の様なヤツこそパーティ野郎だ(二重の意味)。
ここんトコ話題の野々村某。彼はインチキ臭い地域政党名を掲げ、その党首として受かったそうな。これも政党というものの存在自体がもたらす弊害と言えまいか。ま、彼に投ずる方もどうかしとるが、支持した人達の名誉の為にも、ひょっとしたら会見で涙ながらに弁明した様に、当初は彼にも高邁で明確なビジョンがあったのやも知れぬと思って、ブログを覗いてみたら、沢山の写真に添えて、「今日は誰々と会いました、どこそこに行きました」だって。で、文末にうそ臭い謝辞の定型文。やっぱりかーい!読む価値ゼロなので無論リンクなぞ貼りません。

今じゃ全く耳にしないが、数年前、二大政党と言う言葉が喧伝された。私はその頃からそも政党自体を怪訝に思っていたから、そんなモンに何の利点があるんじゃい、まさかアメリカを今でも盲目的に規範と崇める訳でもあるまい、ただの buzzword だろ、とばかりに斜に見ていた。私は彼らに投票しなかったが、政権を取ってしまった。じゃあしょーがない、お手並み拝見だと、注視した。しかし意外にもその政権には私にとって魅力と思える要素があった。それは大将が理系で、しかも博士だった事。家柄なんぞは無論捨象。
演算能力の低い政党が電卓だとすれば、スパコンとまでは行かないにせよ、パソコンぐらいの迅速な処理を自身の与党と内閣に実現してくれるんじゃないかと期待した。しかし、周到な準備と政権奪取の意欲の表われだと吹聴していた筈の「影の内閣」なる代物もただの「政権ごっこ」だったと露呈。「仕分け」に拘束力なぞ無くせいぜい地元有権者に対しアタシ毅然と仕事やってますというアピールにはなったかもね。後任も同じく理系だったが結果は周知の通り。そのまた後継は、どじょう…
何のこっちゃ。やがて彼らの標榜した健全な政権交代がある意味実現されるに至ったという皮肉な結果。

お気付きの方もあられようが私自身、人を社会的ステレオタイプにはめて勝手に期待するという愚行を働いていたのでした。理系人間はしがらみなぞ物ともせず自身の感情もひとまず脇にやりひたすら論理的に物事を進めると。
最後に私自身の愚かさが露見するというオチでした。
ま、国内最高峰と言われる研究所でもあんな事になってんだもんね。
「政治的」な遣り取りの無い世界なんか無いのかなあ。

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