三島由紀夫の「音楽」(昭和45年)を読んだ。
内容はさて置き、気になった言葉遣いについて書いてみます。
ボオイ・フレンド、ノオト、ボオト部、レエスなどという表記が散見したが、恐らく当時も今と同じ、ボーイ、ノート、ボート、レースがこれらの慣用表記だったろう。で、わざわざ普通の表記から変えているのだから、何か特別な意図があるのかと訝る。可能性としては原音に対する可及的近似表記だが、それなら、ボイ、ノウト、ボウト、レイスとやらねばならぬ。三島表記は、読んで発音するには慣用表記と(ほぼ)一緒だろうから、じゃあ長音符(伸ばし棒)の「ー」が嫌いなんだなと思いきや、スウェータア、ミスティフィケーションなんてのが出て来る。これらも近似表記するなら、スウェタ、ミスティフィケイションだろう。ラジオはこのままの表記で、d の音を伝えるラヂオですらないが、かと思うと、ライヴァル、コムプレックスなんてのが出て来る。
一貫性がある様にも思えないし、彼が英語の達者だった事を併せ考えると、いよいよ本意は汲みかねる。
それこそミスティフィケイションだ。
カナダのTV局のインタビュー
昭和41年の、外国特派員への講演
一語一語の発音はカタカナ英語っぽくもあるが、アクセントは概ね正確だし全体の抑揚は米国人みたい。そしてつまりそれが流暢さ、聞き易さを醸している。
さて、比べちゃ可哀相だが、安倍首相が英語の原稿を読むスピーチを耳にした事がある。それはそれはキレイな発音だったが、直前に講師にでも付いて一対一で教わったのだろうというのがバレバレだった。
その小ギレイな朗読に耳を奪われ、内容は全く入って来なかった。本人もきっと上の空で記号を発していただけだろう。それこそ原稿は発音記号で書かれていたのかも知れない。付焼刃のキレイな米語。
私は安倍さんが嫌いではない。だからこそ尚更、そんなカッコ付けに感ける暇があったら、日本語でいいから原稿読みでなく、自分の言葉でスピーチすりゃいいのに、などと思ってしまう。
この逆の例は片山さつき。これも内容は忘れたが、彼女の英語のスピーチを聞いた。
カタカナだった。カタカナ英語じゃなく、カタカナ。でも完全に本人の心からの言葉だったのが迫力となって伝わって来たのをよく覚えている。彼女は仏留学経験もあるみたいだが、仏語を話すにもこんな感じなんだろうか。
伝達手段としての言語を使いこなす二人からすりゃ、安倍は七五三でよそ行きを着せられ手を引かれる5歳児みたいなモンだろう。二人の様に着こなせてはいない。手段が目的になっちゃった典型だ。残念。
その点、片山は、服はダサイ(失礼!)が、紛れも無く心は錦だった。
コメント